モノクロームの記憶

夏休みに入った息子たちを連れ妻籠、馬籠間9Kmを歩いてきた。

旧中仙道の馬籠峠をたどる道だ。

車で妻籠に向かい、公共駐車場に車を停めると、朝の妻籠宿を歩き始める。

朝早いせいで観光客もまばらな旧宿場町を歩くと、夏の朝の風が鼻をくすぐる。

店先に飾られた花が濃茶色の街並みの中、鮮やかに目に突き刺さる。

お土産店はすでに開いていて、小奇麗にディスプレイされた品々が目を引く。

キーホルダーやマスコット、ペンなどといった何処にでもありそうなものから、木曽地方の名産「御岳百草丸」など様々のものが売られている。

過去の旅人たちもこのように店をひやかしながらこれから越える峠道に思いを馳せたのだろうか。

家々がだんだんまばらになると道は少しずづ斜度を増していく。

宿場街の上方の駐車場脇にある小道に歩を進める。

木々が生い茂り、日差しが遮られ歩きやすいシングルトラック。

大妻籠、下り谷など小さな集落が点在し、その間を昔ながらの土道がつないでいる。

数件の古民家が保存されている立場茶屋後まで来るともうすぐ峠。

更に15分ほど歩くと視界がひらけ、県道7号線の馬籠峠に出る。

舗装された道の脇に駐車場と一緒に峠の茶屋がある。駐車場脇の日陰を借りて、家から持ってきたおにぎりで空腹を満たす。

標高801m、峠の風景に過去の面影はない。

昼食を済ませ馬籠宿に向け下っていく。

馬籠峠の妻籠側が比較的ゆるやかな上りなのに対し、馬籠側は急な下り。

駆けるように下っていく。

自転車だけでなく歩きも下りは早い。あっという間に馬籠宿に着いた。

静かな峠道から観光客でごった返す馬籠宿に入ると日本語だけでなく、聞きなれない様々な言葉が行き交う。

馬籠は国際的な観光地なのだと再確認する。

日差しも強くなってきて木陰のない道は暑い。

たまらず一件の店に入りアイスクリームを食べ体を冷やす。

バス停に着き30分ほど待つと南木曽行きのバスが来た。乗客は数組、10人ほど。

今歩いてきた馬籠峠を越えて妻籠へ向かう。

旧中仙道と県道7号線は分岐と交差を繰り返している。見覚えのある道が、繰り返し繰り返しあらわれ、映像を巻き戻しているような感覚にとらわれる。

妻籠のバス停で降り、止めてあった車に乗り帰宅した。


X100Sを購入してからほとんどの写真をモノクロで撮っている。

このカメラのカラー画像が汚い、といったことでは全くなく、いや、今まで使ったデジタルカメラの中でもトップクラスに美しいカラー画像を生成してくれる。

ではなぜモノクロで撮っているのか。

カラーで撮っておいて、必要の応じ後でモノクロに変換すれば済むことではないか。

X100Sのモノクロ画像が思いの外綺麗だった、という事も理由のひとつだが、それ以上に写真の「色」が邪魔に感じていた。

カラー写真は、よりリアルで、よりなまめかしく、撮影してきた写真を見返した途端、「記憶」は写真と入れ替わり、過去をたどる度に「記憶」の代わりに写真が現れるようになる。

「記憶」の全てが写真と入れ替わると言ってもいい。

旅先で感じた風の心地よさも、匂いも、小川のせせらぎも全てが写真でかき消される。

対してモノクロ写真は、より情緒的で、より記号的だ。

写真を見た時、周りの空間や前後に起きた記憶が鮮やかに蘇る。

モノクロ写真は記憶を呼び起こすためのトリガー。

私の思い出はモノクロームの中にある。そう、思えるのだ。

だから、過去の記憶ををカラーで残したくない。そう思い自分のための写真はモノクロームで撮る。
























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2013.9.19 *** Hiroshi Yae -- E-Mail: h_yae@sa2.so-net.ne.jp -- Twitter: @h_yae ***