プライベート・フォトグラフ

「あなたのお気に入りの写真を一枚あげてください。」

と聞かれたら、あなたはどんな写真をあげるだろうか?
ロバートキャパの「崩れ落ちる兵士」をあげる人もいるだろうし、宮澤正明のグラビア写真をあげる人もいると思う。
いや私は森山大道の「写真よさようなら」だという人もいるかもしれない。
ん?「写真よさようなら」は写真集じゃないのか? まあいい、あの中から一枚だけを抜き出すことなど私にはできない。


だが、多くの人にとって お気に入りの一枚とは、自分だったり、親だったり、恋人だったり、子供だったり。
そういった自分に近しい人の写真ではないだろうか。もしかしたらバイクツーリングでいった北海道の摩周湖を
バックに撮った、自分の愛車の写真かもしれない。


東北のどこか名もない峠。摩周湖ではない。


世の中には様々な写真がある。はじけんばかりの笑顔と姿態で男性の視線を釘付けにするグラビア写真。
オリンピックの感動を迫力あるフレーミングで伝えてくれるスポーツ写真。手足が信じられない方向に曲がった
凄惨な戦場写真。そしてwebページの片隅にこっそりおかれたブツ取り写真。


私たちが良く目にするそれらメディア上の写真は、多くの人たちに見られることを前提に撮られた写真で、
見る人に対する明確なメッセージなりテーマなりが含まれている。そして、写真の価値とはそういったメッセージ
について語られることが多い。
アングル、フレーミング、露出、絞り、シャッター速度、シャッターチャンス。これら、様々な写真技術は
より明確に、より確実に、多くの人たちにメッセージ伝えるための技術で、価値をより補完する目的で語られる。
では、写真の価値とはそれがすべてなのだろうか?




ピンぼけで、ブレブレで、露出もあっていないし、主題がどこに写っているか分からないような写真。
そんな写真でも、ある人にとっては何物にも代え難い写真だったりする。
時代をともに過ごした人、物、自然。写真を見た時、それらが鮮明に思い出される。
もしかしたら写真の本質とはそういったところにあるのかもしれない。

写真の持ち主にとって、生涯でかけがいのない大切な一瞬の記憶。

「止まれ!! 今、この時」