姫子がエセカトリックを名乗る理由

物語中にその理由が明確に語られています。

かつて姫子が大学生だった頃、千尋と同じようにヘルパーをしていたことがあります。
当時、7階の患者に仕えるヘルパーに学生をあてがうことは珍しかった。
なぜならば、ホスピスに入院する患者のヘルパーは、文字通り生活介護をすることが主ではなく、
どちらかと言えば精神的なケアをするのが大きな役割だったから。
アルバイト気分の学生には務まらない。それが一般的な認識だったのです。
敬虔なクリスチャンである姫子は、むしろそこにトライする気持ちが強く、何度か経験を積んできました。
エピソードは、両親が自殺したある女の子がホスピスに入院してきたことから始まります。

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7階担当のヘルパー志願。
このこと自体は、特に変わったことではない。
しかも私は、今までに、3人ものホスピス患者を受け持ったことがある。
自分の年齢を考えると、稀なヘルパー経験者だろう。ベテランといってもいい。

何故なら、通常の病院の場合は、いくら本人が志願したところで、
大学生のボランティアでは、ホスピス担当にはなり辛い。
どんなに人手不足であっても、それほどホスピスという場所には気を遣っているのだ。

「でも、ここはキリスト教病院」
しかも、他所と比較しても、医療法人より宗教法人色が強い傾向にあった。
「そして私は、カトリック」
物心つく前から洗礼を受け、福祉活動に従事する者。
これが、全ての理由なのだろう。

「だけど今度の担当はいつもと違う」

相手は”子供”だった。
それも只の子供ではなく、保護者無しで病床にある者。
要は身寄りのない、両親のいない子供だった。

もちろん、その子供にしたって、生まれつき両親がいないという訳ではない。
残酷にも、病床にいる子供を残し、そのまま蒸発してしまう親は多い。
認めたくないが、これもまた現実であった。
そんな他に行き場もなく、身寄りのない子供を最初に引き受けるのが、私達のようなカトリック系の病院。
「もしくは、最後の砦といってもよかった」

そして、この慈愛の姿勢。カトリシズムこそが、私を信者たしめる理由だった。

だから私は、敬虔な信者ではない。
別にバプテスト派であろうと、プロテスタントであろうと、なんでも構わなかったのだろう。
物心ついた時から洗礼を受けた身とはいえ、只、偶然に、教会の隣の家に生まれ育っただけ。
間違っても、終生誓願宣立を望むほどの決意は持てない。
純粋に、その慈愛の精神にのみ賛同する者だった。


いつもの7階ではなく、今日は5階へと、まだ見ぬネロの元へと挨拶に向かう。
ここで言う『ネロ』とは、私達ヘルパーや看護婦さんの間での隠語。
7階の住人、子供、身寄りがないからの連想。
恐らくは、フランダースの犬から名付けられたのだろう。
随分と失礼に思えるネーミングだが、今となっては、その真偽は分からない。
私が来た頃には既に定着している感じだった。

ただ、悪意を持っての呼び方ではないのだろう。
何故ならネロが来ると分かると、その担当を志願する医者や看護婦、ヘルパーは多い。
この状況も、献身的な姿勢を旨とする、キリスト教病院ゆえに思える。

そして、その中でもネロ担当のヘルパーは、尊敬と揶揄を込めて、アロアと呼ばれた。
ほんとはパトラッシュの方が、らしいのだろうけど。
でも私達は、一緒に死んであげることは出来ない。

だから、一番の親友であるアロアと呼ばれる。
そしてこの私も、アロア役を求める一人だった。
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こうして女の子のヘルパーとして仕え始めた姫子。
ネロとアロアは『友達』になった。
アイスクリームを一緒に食べ、中庭を散歩し、ときには教会に連れて行ってお祈りをして・・・
これはホスピスのヘルパーに求められる役割の中でも大きなものだと思う。

しかしこの女の子も、同じ入院患者のおばさんから『ルール』の説明を受けてしまう。
そして子供ながらにもそれを理解し、姫子と距離を置くようになった。
さらに。ある日を境に、ほとんど何も食べなくなってしまっていた。
ホスピスにおいて、食べないということは致命的。
栄養補給目的の点滴などは行わないため、この致命的という言葉の通り、即、死へと繋がる。

ここに至って姫子の葛藤が始まる。

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「あのね、そんなことじゃ、あっという間に弱ってくるんだから」
「弱ってくる?」
「そうよ、食べないと身体がもたないわ」
「じゃあ、弱った先は?」
「えっ…」
「もっと身体が弱っちゃうと、どうなるの?」
「そ、それは…」

ここで私の言葉は止まった。
喉元で「死」という単語を飲み込んだ。

本来なら、生を説き、死を説くのも教会の務め。
私達はそれをサポートするのも務め。

そしてここは7階。
生を過ごした者に、迎える死を安らかに説く場所。

だけど。幼い彼女に対して。
十分な”生”を過ごしたとは言えない彼女に対して。
一体誰が、今から死を説けるというのだろう。

こんな時こそ。
聖アウグスティヌスや、主イエスさまの言葉を聞かせるべきかも知れないけど。

私には、半分の祈りを捧げることと、
アイスを買ってきてあげることくらいしか出来なかった。






「ね、ねえ、お姉さん。お父さん、お母さんはどこ?」
「……………」
「わたし、死んじゃうの?」
「そ、それは…」

そこで言葉に詰まってしまった。

「それは、じゃ、わからないよ、ちゃんと答えてよ」

「うぅ、ひ、ひっく、ぐす」

何か言おうと思うんだけど。
こんな時こそ、何か言わないとダメなんだって分かっているんだけど。

何が優しさであるかも知ってるつもりなのに。
生と死を説く為の、カトリックでもある筈なのに。

なのに私には。何も言葉が見つからなかった。

こんな時、アウグスティヌスやヒエロニムスならば。何と答えれるのだろう。


「じゃあ、これだけでも教えて。神さまは、どこ?」
「えっ…」
「聞こえなかったみたいなの…教会でもお祈りしたのに」

神さまはどこ?

その問いに、私は口を閉ざしてしまう。
「ごめんね、分からないわ」
「そっか、ハカセのお姉さんでも分からないんだ」
そして、ベッドから起き上がると窓辺へと向かい。

「やっぱり、空の上?」
そう言いながら、見上げた空。
15cmしか開かない窓から、夜明け前の蒼い空を見上げた。

「ねえお姉さん、わたし、屋上に行きたい」
「屋上?」
「うん、少しでも高いところでお祈りしたら。聞こえるかも知れないでしょ? 神さまに」
「………………」
「…ダメ?」
「いいえ…わかったわ」

彼女に肩を貸すようにして屋上へと向かう。
本来この場所は、患者は行けない。行かせない。
でも、この時の私には…
アイスを買ってあげることしかできない、アロアには。
なにも、答えてあげることが出来ない、無力な博士には。
他に出来ることがなかった。


青紫の夜明けが、白み出した日の出へと変わる。
誰の姿も見えない殺風景な場所。
時折吹く風に鳴る、7階の天井よりも高いフェンス。

「ここは、気持ちいい場所だね…」
まるで独り言のように呟くと、ポケットから取り出したのはロザリオ。
それはかつて、私がプレゼントしたものだった。

「やっぱり、これがないと魔法にならないもんね」
そして、静かに手を重ねると、日の出を迎えた空に向かって、言葉を繋いだ。

「み名が聖とされますように」

「わたしたちを、こころみにあわせないでください」

これも、以前に私が教えた、幾つかの主の祈り。
でも、彼女にとっては。その言葉がどんな意味かすら分かっていなくて。
只、助けてくれる為の。魔法としか思っていなくて。

「お姉さん、今のは聞こえたと思う?」
「…………………」

その言葉に私は、頷くことも…否定することも出来ず。
やはり。只、黙っていることしか出来なかった。

無駄、だと言えば良いのだろうか。
これも、贖いだと諭せば良いのだろうか。
それとも。八年も生きれたことを。
神に感謝しろと言えばよいのだろうか。

「ねえ、お姉さんも一緒に祈って」
その言葉に、私は黙って頷く。頷くしかなかった。
そして、尚も祈り続ける彼女と同じように、この高い空に向かって、祈りを捧げた。


まだ残る夜気、白み出す空、鳴き始めた蝉、ありふれた夏の日のこと。
この7階屋上から、彼女のことだけを祈った。

いつも半分は、自身の赦しに使っていた私。
でも今は、その全てを以って、彼女のことだけを祈った。

きっと、どこかで聞いてくれている”筈”の、そんな神に向かって祈った。

「うぅ、ひっく、うう」
何故か…涙が出てきた。

「どうして泣いてるの?」
「い、いいのよ、別に泣いたって。
 こ、こんな時には泣いてもいいのよ」
「それは誰の言葉? イエスさま?」

違う。これは私の言葉よ。

もし。私が聖者ならば。
もし。私の言葉が、只の気休めでも、おまじないでもなく。
本物の魔法ならば……

今こそ、奇跡を起こすのに…

去る者と、残される者。

どんなに親友でも、パトラッシュにはなれないアロア。

自分の無力さを知った。




「ごめんね、お姉さん。友達にならなければ良かった」
泣き続ける私の前で、寂しそうに謝る彼女。

「ちゃんとルールにあったのにね。ここに来たら、友達を作ってはいけないって」
 ごめんね、ちゃんとわたしが守っていたら。お姉さんを泣かせることもなかったのに」

そして。再び空に向かって、祈り始める彼女。
どこまでも広がる、高い夏空に向かって、
そこにいるであろう、神に向かって祈りをあげる。

その真摯な姿に。
私のあげたロザリオを手に、只の主祷文を、魔法の呪文だと信じる姿に。

「も、もういいから! もう祈るのはいいからっ」
「どうして?」
「うぅ、ひっく、うぅ ……無駄なのよ、そんなことしたって」
とうとう、クリスチャンとして、言ってはいけない言葉を出してしまった。

「だ、だからもう止めて、あなたは助からないの、どうやっても、死んでしまうのよ」
そしてヘルパーとしても、ネロの親友であるアロアとしても。
言ってはいけない言葉を出してしまった。

「うん、わかってる」
「じゃあ、どうして?」
「………………」
「別に、わたしはもういいの。
 只、泣いているお姉さんが、泣き止むように。
 早く、いつもの笑顔になってくれるように。
 それだけを祈りたいの」

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2作目のプロローグ冒頭にこんなやりとりがあります。

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千尋:「ねえ、お姉ちゃん。神さまは。一体なにをやっているんだろう」
姫子:「……………さあ、忙しいんでしょうね」
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存在を信じている神、全知全能のはずの神。
捉え方によってはこれは試練とも読み取れます。
しかし目の前で死に行こうとしている女の子を前にして、それを説くことすらできない自分。
そのいらだちがこのセリフになっているのでしょうか。

後に、姫子はセツミにこの女の子の姿を重ねることになります。
それこそが姫子がセツミに声をかけた最大の理由だったのでしょう。

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